狭山事件とは?

警察の犯人取り逃がしと差別による見込み捜査


狭山事件は、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した女子高生殺人事件です。

警察は、身代金を取りに来た犯人を取り逃がしました。

その責任を国会で追及された警察庁長官は辞任に追い込まれました。

警察が重要参考人としていた男が農薬を飲んで自殺した時、国家公安委員長は「死んだ者に用はない。生きた犯人をふんづかまえる」と豪語しました。

警察は狭山市にある二つの被差別部落に対して集中できな見込み捜査を行い、5月23日、石川一雄さんを別件逮捕しました。

えん罪・狭山事件の始まりでした。

1963年5月4日 東京タイムス
1963年5月4日 東京タイムス

「部落は悪の温床」―差別を煽りたてたマスコミ


警察が石川さんを逮捕すると、マスコミはただちに石川さんを犯人と決めつけ、「乱暴者の土工」「異常性格」などと人格攻撃をはじめただけでなく、石川さんの住む被差別部落を「特殊地区」「犯罪の温床」などとして部落差別を煽りたてる記事が現れました(以下)。

 

「環境のゆがみが生んだ犯罪―用意された悪の温床」「石川の住む『特殊地区』には毎年学校からも放任されている生徒が10人ぐらいいるという…こんどの事件の捜査の過程で同じような犯罪をおかす危険性を持つ多数の若者の存在が浮き彫りにされた」(1963年5月25日『埼玉新聞』)

 

「犯罪の温床四丁目部落―Yさん殺しの背景」「Yさんの死体が、四丁目に近でい麦畑で見つかった時、狭山の人たちは異口同音に『犯人はあの区域だ』と断言した」(1963年6月24日『東京新聞』)

1963年5月23日未明、別件逮捕される石川一雄さん
1963年5月23日未明、別件逮捕される石川一雄さん
マスコミの差別報道
マスコミの差別報道

卑劣な自白の強要「やったと言わなければお兄さんを逮捕する」


石川さんの別件逮捕の容疑は「友達に上着を借りて返さなかった」などの言いがかりにすぎませんでしたが、取り調べではもっぱら「Yさんを殺したのはおまえだろう」と身に覚えのない殺人容疑で責め立てられました。腰縄・手錠のまま、夜も眠らせない違法な取り調べでした。

警察は、23日間の拘留期限が来ると、石川さんが狭山署の門を出たところで再び狭山事件の本件で逮捕し、当時使われていなかった川越分室の留置所に石川さんを入れてしまいました。

石川さんは約1か月間、容疑を否認しましたが、「おまえがやったと言わなければお兄さんを逮捕してもいいんだぜ」と脅され、「やったと言えば10年で出してやる。男と男の約束だ」という甘言に騙されて、ウソの自白をしていしまいます。

1964年3月11日、わずか半年のスピード審理で出された第一審判決は死刑判決でした。

手錠をかけられたままの違法な取り調べを受ける石川さん
手錠をかけられたままの違法な取り調べを受ける石川さん

差別裁判糾弾闘争


 死刑判決を受けた後も「10年で出してやる」との警察官の約束を信じていた石川さんに対し、同じ東京拘置所で、えん罪・三鷹事件で拘留されていた竹内景助さんが「このままでは死刑になってしまう。控訴審で無実を訴えるべきだ」と忠告します。

 苦しみ抜いた末、警察官に騙されたことに気付いた石川さんは、1964年9月の控訴審第1回公判で「自分はYさんを殺していない」と訴え、刑務官の助けを借りながら文字を覚え、獄外に支援を訴えていきます。

 1969年、高校落解放研究会の生徒らが「狭山差別裁判糾弾」を掲げて死刑判決を下した浦和地方裁判所を占拠。その後、部落解放同盟が支援に乗り出し、総評参加の労働組合もこれに続きました。

控訴審を前にした1974年9月30日には、石川さんの無罪を求め、11万人もの人々が日比谷公園に集まり、狭山差別裁判糾弾闘争は日本の裁判闘争史上、空前の闘いに発展します。

 しかし、1974年10月31日、寺尾正二裁判長の下した判決は無期懲役という過酷なものでした。

第2審判決を前に日比谷野音を埋め尽くした11万人(1974年9月30日)
第2審判決を前に日比谷野音を埋め尽くした11万人(1974年9月30日)

今も無実を訴え続ける石川一雄さんと妻・早智子さん


 石川さんは32年間の獄中生活を経て、1994年に仮釈放されました。仮釈放されてからすでに24年の歳月が流れ、その間に、第1次、第2次の再審請求が棄却されました。しかし、石川さんの不屈の精神は枯れることなく、2006年に第三次再審請求を起こし、出獄後に結婚した妻・早智子さんと二人三脚で、79歳になった今も毎週のように東京高裁の前に立ち、再審開始を訴え続けています。


映像で見る狭山事件